73番 Good Luck!

73番 Good Luck!

神戸女学院中学部

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 いろいろなことがあって波乱の受験生活でしたが、経験した大切なことをできるだけくわしく書きました。参考にしてもらえたら嬉しいです。

<3年生 希学園との出会い>
 私が中学受験を意識し始めた最初のきっかけは、5歳上の姉の存在でした。姉は希学園に通って中学受験をして、神戸女学院中に通っていました。小さい頃から姉が大好きだった私は、同じ学校に行けたら良いなとぼんやりと思っていました。母から「神戸女学院中学部は、塾に通わずに合格するのは難しい学校だよ」と聞いた時、私は少し考えてから「わかった、頑張る」と答えました。それが私の中学受験の始まりでした。
 3年生の夏期講習を体験し、2月の新4年生スタートから希学園に通いはじめました。ベーシックと社会特訓を受講しました。最初のクラスはPC6で、プレチューターは井口先生でした。姉は4年生の6月から通い始めたので、最初の遅れを取り戻すのが大変だったそうです。その経験があったので、母は2月のスタートに間に合うように準備をしてくれました。授業は楽しかったし友達もできて、私は塾に通う生活に慣れていきました。

<4年生 楽しかった授業と、逃げ込んだブランケット>
 この頃は塾が好きでした。テストは、あまりプレッシャーを感じていませんでした。結果が良い時もあれば、算数で平均点を大きく下回る時もありました。でも、そこまで落ち込むことはありませんでした。授業が終わった後、先生と雑談する時間が私は好きでした。特に楽しみだったのが、国語科の栗原先生の「栗原文庫」です。先生がいろいろなジャンルの本を貸し出してくださり、そこで新しい本と出会うのが一番の楽しみでした。
 一方で、苦手なものもありました。毎朝、学校へ行く前に取り組んでいた「日々の計算」です。頑張って解き終えてもたくさん間違ってしまうことがありました。母に丸つけをしてもらった後、×がついているのを見ると、思わず「もうやだ!」と叫んでしまうこともありました。そしてそのまま、朝勉をしていたダイニングのテーブルから、真後ろにあるソファーへ一直線。ブランケットに潜り込み、しばらく出てきませんでした。この行動を我が家では「脱走」と呼んでいました。一生懸命やっても結果が出ないことがとても悔しかったです。そのまま逃げてしまう日もありましたが、次の日はまた机に向かっていました。計算は苦手なままでしたが、やるしかないという気持ちでした。その繰り返しが少しずつ私を粘り強くさせていったのだと思います。

<5年生 短くなった脱走と病気との長いつきあい>
 5年生のクラスはPC3からスタートしました。ベーシックと社会特訓、実戦レベル演習算数を受講しました。PC3とPC4を行ったり来たりしながら、7月と最後の1月にはPC5になることもありました。成績は安定しているとは言えませんでした。受験をするんだという実感もありませんでした。
わからない問題にぶつかったり、思うように解けなかったりすると、相変わらず私は脱走していました。ブランケットにくるまって、現実から一度距離を取るという行動は、5年生になっても変わりませんでした。でも、4年生と大きく違ったのは、取り組まなければならないことの量です。授業時間が長くなり、宿題も復習も増えて時間に追われるようになりました。ブランケットの中で籠城している場合ではありませんでした。私の宿題の進み具合をわかっていた母は、あの手この手で脱走する私を呼び戻しました。素敵なお菓子をちらつかせ、面白い声かけをすることもありました。
 秘書のように「社長! そろそろお時間です!」と言ったり、編集者のように「先生! 原稿はまだですか? 次の展開はどうなりますか!」と言ったりするので、私はおかしくて思わず笑ってしまい、ブランケットから出て問題を解き終えると「はい、原稿です」と、作家のように母に渡しました。そんなやり取りを繰り返しながら、脱走してもすぐ席に戻るようになっていきました。
 6月の中頃、私は新型コロナウイルスに感染しました。高熱は数日で下がりましたが、咳だけがなかなか治りませんでした。もともと私は体力がある方ではなく、特に気管支の弱さは生まれた頃からよく指摘されていました。一度咳き込み始めると長引くことは、これまで何度も経験してきたことだったので、この時もそういうものだと思っていました。
 無理をせずに過ごしていましたが、咳は良くなるどころか、だんだんひどくなっていきました。病院に行くと、マイコプラズマ肺炎にかかっていました。それをきっかけに、私は喘息と付き合うようになりました。特につらかったのは夜でした。23時ごろになると咳が出始め、息がうまくできなくなる感覚がとても怖かったです。咳が苦しくて眠りが浅くなりました。夜中に何度も目が覚めるようになり、朝は起きられなくなりました。母は睡眠が一番大切と考えて、最低でも7時間は眠れるように起きる時間を調整してくれました。その頃から通院の回数が増え、学校に1時間目から行けない日も増えていきました。
 喘息に慣れてきた頃、きちんと睡眠をとっているはずなのに、朝になると体が動かず、なかなか起き上がれない日が続きました。疲れているのかな、体調がまだ万全じゃないから、もう少し寝ていた方がいいのかなと思いながら過ごしていました。でも、ただ眠いだけではありませんでした。頭が重くて立ち上がるとふらつくことがあり、ある日、目の前が急に真っ暗になって倒れてしまいました。貧血ではないかと思い、喘息の診察の時にそのことを先生に相談しました。血液検査をして、どのくらいの貧血なのかを調べてもらうつもりでした。
 ところが、話を聞いた先生が「ちょっと気になることがあるから、検査をしてみようか」とおっしゃいました。その検査でわかったのが、起立性調節障害という病気でした。自分の意思や気合いとは関係なく、朝起きられなかったり、立ちくらみや、ふらつきなどの症状が出たりします。それまで、疲れているだけ、眠いだけだと思っていたことは、病気が原因だったことがわかりました。
 朝、どうしてもシャキッと起きることができませんでした。体が鉛のように重いし、何か話しかけられても頭がぼうっとして、すぐに反応できません。それまで普通にできていたことが、とてもしんどく感じるようになっていました。なんでこんなに動けないのだろうと何度も思ったし、もしかして、気持ちがだらけているだけじゃないかと、そんなふうに思うこともありました。だから、起立性調節障害という病気だとわかったとき、病気になったという悲しさよりも、病気だったのだとわかったのでホッとしました。診察室で先生が「しんどかったやろう。なんでできへんのやろうって、思ってたやろう」と言ってくださったとき、私はうなずきながら、涙が出そうになりました。「頑張ってないわけじゃないねんで。今の●●ちゃんは、100%の●●ちゃんじゃないねん」そう優しく言ってもらえたことで、不安に思っていた気持ちが楽になりました。
 それから、母は起立性調節障害について知るために、本をたくさん読んで、先生と何度も話をしてくれました。そして、その内容を私にもわかるように説明してくれました。残念ながらいつ治るかはわからないし、すぐに元通りになる病気ではないことも正直に伝えてくれました。その上で気をつけないといけないことや、今できる私に合ったやり方を一つずつ、一緒に考えていきました。
 ①規則正しく生活すること。②しっかり食べること。③睡眠時間を優先すること。④体と心の調子を見ながら、無理をしないこと。これをすると良いという正解がすぐに見つかるわけではなく、試してみて合わなければまた考え直す試行錯誤の日々でした。
 そんな状態だったので、学校に行けた日は、まず遅れていることに取り組みました。授業に追いつき、休み時間も使って提出物を終わらせるとクタクタでした。家に帰ってきてからは横になり、何も考えずに休むようにしていました。それまでは、学校の宿題も希学園の宿題も、できるだけ完璧にしようとしていました。でも、この頃からそれが難しくなっていきました。先生や母と相談しながら、学校の宿題はちゃんとやって、希学園の宿題はしなければならない最低限で取り組むようになりました。それまでしてきたことをしないと考えると不安がありましたが、それで取り組むしかありませんでした。
 そんな中で一番大切にしたのは、希学園の授業をできるだけ万全に近い体調で受けることでした。体調が悪い時は授業中、顔をあげて座っているだけでもしんどいこともありました。宿題はなんとか仕上げていましたが、それまで毎日少しずつ続けていた計算問題集や、公開テストの丁寧なテスト直しまで手が回らなくなっていきました。復習テストの前に、内容をしっかり見直す時間も取れなくなっていました。時間が全然足りませんでした。そこで、することを細かく分けて考えるようになりました。送迎の車の中と学校の空き時間に、さっと目を通せるように、社会や理科、漢字はテキストをコピーして持ち歩きました。
 私の病気は、午後になると少しずつ症状が安定してくるという特徴がありました。学校から帰って宿題が終わったら少し寝る。そして目が覚めると、よし、やるか! という気持ちで、頭をフル回転させていました。体調が一番いい時間帯は、特に苦手だった算数や、しっかり集中したい国語の精読をしました。少ししんどい時には、暗記中心の社会や理科、漢字をしました。その日の体調に合わせて、その時できることを選びながら勉強するようになりました。授業後のサポートルームも、決して楽ではありませんでしたが、午前中に比べると、ずっとマシでした。できるだけサポートルーム中に宿題を進めることが、ひとつの目標になっていきました。
 5年生のプレチューターは、十河先生でした。神戸女学院中学部を目指すならPC3に安定していられるように頑張ろうというお話をしていただき、私は初めてクラスをはっきりと意識するようになりました。それまでは、目の前の授業や宿題をこなすことで精一杯でしたが、目標が見えたことで、自分には何が足りていないのかということや、それをどうすれば埋められるのかということを考えるようになりました。わからないことはそのままにせず、どんどん質問に行きました。質問に行けば行くほど先生と話しやすくなり、授業中にも質問ができるようになりました。誰よりも質問していたと思います。
 算数で特に足りていなかったのは、計算力でした。そこで、毎朝100マス計算に取り組むようになりました。続けていくうちに、タイムが縮まって力がついていくのを感じました。公開テスト後の計算大王では、小さな目標を決めて、毎回それをクリアできるように、毎日計算に取り組みました。復習テストでは思うような結果が出なくても、計算テストでは、頑張った! と思えることが増えていきました。あまりのある割り算を100問解くプリントは、タイムを測りながら、受験本番の前日まで欠かさず続けました。その日のコンディションや集中具合がわかるようになったことも、この積み重ねの大きな収穫だったと思います。
 算数は、5年生の終わりからポリックにお世話になりました。質問が多くて通常の授業の中だけでは消化しきれなくなってきたからです。前向きに頑張りたい気持ちはありましたが、あまりにもできないことが多くて、宿題やテスト直しは、とても時間がかかりました。良い取り組みができていると胸を張って言える状態ではありませんでした。ただでさえ体調のことや通院で時間が限られているのに、算数の負担はとても大きかったです。算数は苦手なままでしたが、ポリックのおかげでそれまでに比べ格段にスピードアップして、それまで以上の量に取り組めるようになりました。一人ではできなくても助けてもらえれば何とかなるという選択ができたことは、この時の私にとって、とても大きな支えになりました。

<6年生 春>
 6年生のクラスは5Aからのスタートで、チューターは新谷先生、ベーシックと社会特訓、実戦レベル演習算数を受講していました。5年生の最後の公開テストが散々で6年生を目標の3Aでスタートすることができず、志望校別特訓も2月、3月は2ルームでした。クラスは3Aから6Aまでを行き来し、公開テストの結果次第でした。公開テストとの相性は良くありませんでした。
 公開テストや入試実戦テスト、プレ入試など大きなテストの結果について新谷先生と話すとき、よく言われた言葉があります。
 「今の成績だと2回に1回は受かる。でも2回に1回は落ちる。つまり50%のボーダーラインです。だからその50%を0.1%でも上げていこう」
 その言葉を聞いて不安にはなりましたが、まだ可能性があるということだと受け止めていました。新谷先生は、受け持ってもらった人ならみんな知っていると思いますが、本当にとても優しい先生です。体調のことをいつも気にかけてくださり、私が頑張っているという前提に立って話をしてくれているのが伝わってきました。だから、少し厳しいことを言われたとしても、頑張ろうと思うことができました。
 自分なりには、かなり頑張っているつもりでした。でも、成績はいつも不安定でした。他の教科をどんなに頑張っても、算数がそのプラスを根こそぎマイナスにしてしまう。得意だったはずの国語でうっかりミスをすると、もうどうしようもない。そんな結果を見ることが何度もありました。それでも不思議なことに、算数がこれは本当にやばいと思うほど悪いときは国語がとても良かったり、国語が思うようにいかなかったときは、算数が普段より持ちこたえてくれたりしました。
 4月には志望校別特訓で1ルームに上がることができ、実戦レベル演習算数では得意な単元の時は自分なりに満足できる結果が出せる時もありました。実戦レベル演習算数は質問がしやすく、たくさん先生と話せたので、ベーシックよりも気が楽でした。森本先生は私の希学園かばんに入っている母の作った時間割がわかりやすいと時々見にきて、円周率の語呂合わせや素数を覚えるためにまとめたプリントも良いね! と言ってくれて嬉しかったです(算数が苦手な子の役に立っていると良いな。円周率の語呂合わせは実は歌になっています。恥ずかしくて先生に歌ってみせることはできませんでした)。
 宿題はいつもギリギリで、授業のある当日に間違った問題のやり直しをしていたことも多かったです。志望校別特訓の宿題は、この時期はまだ余裕がある様子の友達もいましたが、私は送迎の車の中でも宿題プリントを解いていました。
 GWにあった第1回プレ神戸女学院・四天王寺中入試は合格できました。姉から不合格部屋の恐ろしさを繰り返し聞かされていたので、とてもホッとしました(不合格部屋から聞こえてくる先生たちの声は恐ろしかったです)。
 梅雨の時期が近づいてくると、体調は一気に悪化しました。天候や気温差に大きく影響を受けるのでこの頃は本当にしんどかったです。学校に遅れて行けたとしても途中で保健室へ行くことになったり、ぼうっとしたり顔色が悪かったりして希学園でも先生から授業中に声をかけてもらうことがありました。西宮北口教室で行われる志望校特訓には体調次第では行けないかもしれないと、母は当日急にオンライン受講になっても対応できるように相談して準備をしてくれました。西宮北口教室へ朝行くときは途中で倒れるといけないので、姉が必ず教室まで一緒に着いてきてくれました。

<夏>
 夏休みに入り、寝る時間と食事の時間以外はほぼ勉強する毎日になりました。学校が休みになって負担が減りホッとしました(係活動やグループ発表など休むと迷惑をかけるような時は、できるだけ遅れずに行くようにしていました)。午前中はどうしてもしんどいので、夏期早朝サポートルームに毎日行くことはできませんでしたが、算数と理科の質問ができる日はできるだけ朝から行けるように調整していました。とにかくやらないといけないことがどの教科もたっぷりあったので、提出期限から逆算して毎日どのくらいやっていくかを決めてコツコツ取り組みました。
 算数は引き続き苦戦していて、志望校別特訓の宿題は1回目→1回目に間違った問題のやり直し→2回目→2回目に間違った問題のやり直しをしなければなりませんでしたが、1回目に間違った問題のやり直しまでしかできず、復習テストが解けなくて、テスト直しをたくさんしなければならないので次回の宿題の時間が削られるという悪循環になることも多かったです。テスト直しや宿題の手強そうなところは自分だけで取り組むと時間がかかりすぎるので、いつもポリックで先生に見てもらいながら取り組みました。ポリックでは新谷先生にいつも言われていた、なぜ間違ったのか? なぜ解けなかったのか? どこがわかったら解けたのか? という分析をして、考え直しのスペースに必ず書くようにしました。私がどうしても忘れがちだったので、母はポリックの連絡シートに、本人が記入を忘れていたら声がけをしてほしいと毎回書いていました。ポリックの先生はどの先生も優しくて、生徒思いの熱い先生です。算数が苦手な人は絶対行った方がいいです。やる気が出ます。
 8月の第2回プレ神戸女学院・四天王寺中入試も合格できました。

<秋>
 志望校別特訓の宿題がどうしても回らず、実戦レベル演習算数を8月いっぱいで外しました。通常授業の復習テストの直しはしていましたが、公開テストのやり直しは算数以外全くできず、算数も新谷先生に印をつけてもらった問題だけを直す状況でした。絶対にやった方が良い習熟度確認テストの直しもできず、とにかく神戸女学院中の名前がつく模試の直しを最優先でするようにしていましたが、算数と国語はなんとかできても、理科はできたりできなかったり、社会はできないことが多かったです。たまっていく一方なことに焦っていましたが、提出が迫っている目の前の宿題が多すぎて、もう無理だとも思っていました。実際後になって取り組む時間ができるようなことはなかったです。夏頃に竹見先生に相談した時は、またこの後するから大丈夫と言ってもらいましたが、さすがにこの時期になると今できないとまずいのではないかと不安でした。母は少しでも身につくよう、間違えた問題を付箋に書いて、家のあちこちに貼ってくれました。受験本番間際には量が多すぎて、エレベーターの中やトイレ、洗面所が呪いの部屋のようになっていました。
 10月の第2回神戸女学院中入試実戦テストはD判定で不合格でした。国語がこれまでで一番悪い偏差値で、そこから得意だと思っていた国語に最後まで苦しめられました。それまでの私は国語を何となく解いていて、それでは通用しないことを思い知ることになりました。国語のセンスが良い人は神戸女学院コースにはたくさんいます。神戸女学院中学部の国語はその上でどう考えるのか、どう解くのかをとことん鍛えることが必要でした。テスト直しはすごく時間がかかったし何度も再提出になって、先生には厳しいこともたくさん言われて国語が嫌いな教科になりそうでした。算数の方がマシだとすら思いました。

<冬>
 国語の不調に引きずられるように、安定していた社会特訓のクラスも毎月落ちていきました。志望校別特訓も2ルームで、あまり良い状況ではありませんでした。朝起きるのがとても苦痛でしたが、姉の親友のお母さんが手作りのアドベントカレンダーをプレゼントしてくれて、それが楽しみで起きるのが少し楽になりました。6年生になってから、夜寝る前に母と手を繋いで「私は絶対合格できる!」と3回唱えていました。矢原先生から嫌いな教科を大好きと言ってから寝なさいと言われてからは「国算理社大好き!」、スピードアップと集中力アップを意識しなさいと十河先生に言われてからはそれも付け加えて、長い呪文のように毎日唱えて眠りました。身の回りには神戸女学院中学部に進学したら学年カラーとなるグリーンのものがたくさんありました。グリーンは未来や成長を意味すると聞いたことがあり、先輩たちがくださった激励のメッセージカードに「未来のグリーンさんへ」と書かれているのも良いなと思っていました。
 12月希学園最後の公開テストの朝、祖父が亡くなりました。前の晩に緊急手術になり、母と私は家で休んでいましたが、父からの連絡で早朝病院に向かいました。とてもショックでした。心配であまり眠れなかったし泣きすぎて混乱していましたが、前もって最後の公開テストは受けようと決めていたので、病院から開始時間に間に合うよう向かいました。しかし、母も動揺していて道を間違えてしまい、少し遅刻して受験しました。
 結果はやはり散々で、見たこともない成績でした。今でもあの日から数日どう過ごしたのか記憶は曖昧です。何日か何をしていても涙が出てきて、ぼんやりしてしまう日が続きました。心を休めることが必要でした。でも、母から亡くなってから49日間は祖父が家族の近くにいてくれることを聞き、私が受験を頑張れなかったら祖父が悲しむと思ってからは気持ちを切り替えられました。

<12月20日午前 岡山中学校>
 前受けの岡山中学校は全く緊張せず、激励に来てくださっていた竹見先生に「もうちょっと緊張して!」と言われました。周りの席は顔見知りの友達ばかりでいつもの志望校別特訓のような雰囲気で受験できました。
 国語…相性が良かったです。
 算数…大問6は真っ白、その他は解けました。
 理科…できました。
 社会…できました。
 結果→東大・国立医学部コース合格

 第3回神戸女学院中入試実戦テストはC判定で合格できました。入試対策に入ってからは過去問の難度がさらに上がり、周りの空気も変わったのを感じました。できる人はこれもという課題がこれでもかと配られましたが、ほぼできませんでした。でも、これだけはと言われたことは絶対にするのだと必死で取り組みました。
 1月1日のプレ神戸女学院中入試は不合格でした。不合格は何度か経験しましたが、初めて泣きました。竹見先生が不合格部屋の机の間を歩きながら、箱ティッシュを抱えてみんなに配ってくれました。泣きながらどこが駄目だったのか確認しました。合格最低点まで9点足りませんでしたが、算数のうっかりミスだけでも十分カバーできたことがわかり、そのことを新谷先生と話したときに伝えると、先生は「1問の重みよくわかったよな。じゃあ大丈夫やな」と言ってくれました。その後、他の教科も確認したら合格できるはずのテストでした。不合格だったけれど、ちゃんとやるべきことをやれば大丈夫だということを感じました。

<前日特訓とおやすみコール>
 昨年の先輩方の合格した時の動画を見て泣きそうになりました。自分も絶対合格するぞと思いました。先生達のメッセージを見てまた泣きそうになりました。帰ってからは、2年分する予定で残っていた帝塚山中の過去問1年分を大急ぎで取り組み、終わっていなかった算数の総まとめを必死で仕上げました。姉が自分の経験から、総まとめをやり切ったことが絶対当日自信になるからと言われていました。発展問題はできませんでしたが、応用問題は根性で全部取り組みました。寝る時間ギリギリまでかかりました。おやすみコールで先生たちの声を聞いたら緊張がとけて、ぐっすり眠れました。

<1月17日午前 神戸女学院中学部 1日目>
 私の受験番号は73番でした。73という数字には「進んでいる方向は間違っていない」という意味があるらしいよと母から教えてもらいました。また、アマチュア無線で「Good Luck(幸運を)」という意味で使われるということも知りました。それを知った時、応援されているような気持ちになりました。何か特別な力を信じたということではなく、これまで積み重ねてきたことや自分が選んできたことを、それで良いと言ってもらえたような気がしました。だから私は、自分の考えや直感を信じて、目の前のテストに集中しようと思いました。
 集合する場所に3番乗りでつきました。シュプレヒコールでぐっと気持ちが引きしまりました。人生で一番声を出したと思います。
 算数は全然わからなかったので、勘で数字を入れて埋めて、わかったところを10回くらい見直ししました。不安が押し寄せてきたので、その分を理科と社会で挽回しようと頑張りました。
 国語…相性が良かったです。
 算数…難しかったです。
 理科…普通。
 社会…普通。
 結果→合格

<1月17日午後 帝塚山中学校>
 2年分の過去問を解きましたが、算数が両方ともわからなくて悲惨な点数でした。自信がありませんでしたが、当日は意外といけました。国語で読んだことある物語が出て、よっしゃ! と思いながら解きました。
 国語…ラッキーでした。解けました。
 算数…できました。
 結果→スーパー選抜クラス合格(新谷先生に報告したら「マジで!? スーパーいった!?」とひどく驚かれました。過去問のできが悪すぎたからだと思いますが、先生! 失礼です!)

 帝塚山中学校から京都へ父の車で移動しながら、2回目のおやすみコールをもらいました。受験校の激励に竹見先生がいる率が高すぎるというような雑談や、テストの手応えを話しました(竹見先生は6校中4校にいてくださり勝利の守護神だと感じました)。車の中で晩ご飯を食べて少し眠り、京都のホテルに着いたらすぐお風呂に入って寝ました。

<1月18日午前 同志社女子中学校>
 2年分取り組んだ過去問はどの教科も高得点を取れていたので、緊張はしていませんでした。過去問よりは難しくて、ちょっとだけ焦りました。
 国語…できました。
 算数…普通。
 理科…普通。
 社会…できました。
結果→合格

 帰ってから姉と翌日の神戸女学院中学部の体育に備えて、二重跳びの練習をしました。連続して跳ぶことができず6年生になってからずっと練習をしていましたが、宿題が終わらないので縄跳びをする時間はほぼなく、12月に入ってからやっと連続で跳べるようになりました。

<1月19日午前 神戸女学院中学部 2日目>
 駅から出てすぐのところに先生が立っていて、十河先生はツインテールをしていました。「先生、可愛いー!」と周りの子が言ったら、新谷先生が「先生も可愛い?」と言ってかぶっていたニット帽を脱ぎました。見てみたら、なんと先生の頭にちっちゃいツインテール(?)が! 可愛かったけれど、カマキリか犬っぽかったです。すごく面白くて笑ったら緊張がほぐれました。
 縄とび[二重とび]…縄跳びが飛びやすくて、めちゃくちゃ跳べました。
 バスケットボールのシュート…1回だけ入りました。
 マット運動[後転]…ちょっと目が回ったけれどできました。お手本の先輩の後転が綺麗すぎました。
 ハンドボール投げ…全然飛びませんでした。グループの中で1番か2番くらい距離が短かったと思います。
 返事だけでなく、あいさつやお礼も元気にしました。

<1月19日午後 神戸大学附属中等教育学校>
 適性検査特訓で過去問に取り組んでいましたが、他の学校とは全く違う問題形式で慣れませんでした。手応えが全然わからなかったし、とにかく疲れました。
 言語表現…普通。
 数理探求…普通。
 市民社会…難しかったです。
 結果→不合格

<1月20日午前 神戸海星女子学院中学校>
 たくさんの先生が激励に来てくださっていて、校門の前が青かったです。神戸女学院コースの先生や藤原先生がいてくださいました。結構時間があったので先生たちと「寒いねぇ」「そうですねぇ」みたいな感じで雑談をしていたおかげか、緊張がほぐれました。風がとても強くてグラウンドの砂が舞い上がり、バチバチ当たって痛かったです。今年初めてできた日程だったので、過去問がどのくらい参考になるのかわかりませんでしたが、国語がスピード勝負だったのでそのことを意識して解きました。
 国語…できました。
 算数…できました。
 結果→合格

<神戸女学院入試 合格発表>
 合格発表は13時でした。昼食を食べ終わってテレビを見ている間、ずっと色んな人からもらったお守り(中には父から借りた42年もののお守りもありました)を入れたお守り袋を握りしめていました。何かしていないと嫌なことを考えてしまいそうでした。いよいよ発表の時間がせまり、母が「同志社女子中学校と神戸女学院中学部、どっち先に見る? パソコン2台で同時に見る?」と聞いてきたので、考えた結果、第一志望の神戸女学院中学部から見ることにしました。私がボタンを押しました。一瞬不合格かとびっくりしました。合格という文字が小さいし、しかもあれこれ書かれていて背景が青色だったからです。正直、焦りましたが、母が「合格してる!」と叫んだのと、画面に合格という文字があることを確認して、安心して、嬉しくて嬉しくて、母と姉と泣きながら喜びあいました。
 先生たちに早速報告。電話に出てくださったのは十河先生でした。合格したことを涙まじりの震える声で伝えると、十河先生の「やったー!」の声が裏返っていました。新谷先生の声も聞こえて、先生は涙声で「よかった」を連発していました。先生たちの声を聞いたらまた涙が出ました。
 合格できて本当に良かったです。

<最後に>
 頑張ってもうまくいかず落ち込むことはありましたが、振り返ってみると、必ずどこかに救いがあったように思います。全部が駄目だと思ったことは一度もありませんでした。これは多分、私の性格で、悪いことや厳しいことがあっても、その中にある少し良かったところを見つけることができました。ここはできていたとか、前よりはマシかもしれないと考えました。気持ちを引きずりすぎず、次はここを頑張ろうと切り替えられたことは、結果が出ない時期を乗り越える上での、私の強みだったのかもしれません。
 体調と向き合いながらできることを選び、工夫し続けてきた時間。質問をして計算を続けて、小さな目標を一つずつクリアしてきた日々。すぐに結果として表れなくても、可能性はまだあるのだという気持ちがずっとありました。
 そして、いつも周りのたくさんの人たちから応援してもらっていると感じていました。家族は最強の応援団でした。姉と通塾する時に姉の同級生に会うと、どの先輩も頑張ってと応援してくれました。メールでメッセージを送ってくれた先輩もいました。志望校別特訓から最寄りの駅に帰ってくると、知らないお母さんが「お疲れさま」と笑顔で声をかけてくれました(誰のお母さんか最後までわかりませんでしたが、ありがとうございました)。希学園の先生方や事務員さん、学校や習い事、病院の先生、友達、受験当日に学校にいた係の人たちも、言葉はなくても「頑張って!」と言ってくれているようでした。みんなから応援してもらいました。ありがとうございました。4月からグリーンさんとして頑張ります!

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